インフルエンザと宇宙開発

この度、厚生労働省は海外から輸入するインフルエンザ治療薬の一つに、「ペラミビル」も選んだ。この薬の開発企業である米国のバイオクリスト・ファーマスーティカル社は、もともと1990年前後に設立された大学発のベンチャー企業である。初期の段階から日本の塩野義製薬がパートナーとして投資を行っている。
  このベンチャー企業はアラバマ州の中核大学であるアラバマ大学のエックス線結晶学研究者が中心となって設立された。同大学にはエックス線結晶解析の中核施設を有している。研究テーマの一つにタンパク質の結晶解析がある。当初はNASAとのつながりが強く、宇宙ステーションの無重力環境を利用して、純粋な大型タンパク質結晶を生成し、エックス線構造解析することで、さまざまな創薬に利用する研究を行っていた。NASAの宇宙ステーション商業利用促進プログラムの一環として実行されていた「宇宙商業利用センター」の一つに選ばれていた。(このプログラムは現在は閉鎖)

 10数年前に同社を訪問し、インタビューしたときには数十人の学生っぽい社員が郊外の小さな建物の中でさまざまな研究を行っていた。彼らの長期創薬目標の目玉はインフルエンザ治療薬と語っていた。彼らの主張はこういう事である。つまり、インフルエンザウィルスのタンパク質を結晶化させ、エックス線構造解析することで、短期間で治療薬を開発するというものである。この創薬プロセスを利用して、次々と変異するインフルエンザウィルスに即座に対応できる可能性が開けるとのこと。

 この創薬手法を「Structure-based Drug Design:構造解析創薬」と呼んでいる。この手法と従来の創薬手法の違いは、従来の手法は多くの実験を繰り返しながらトライ&エラーによる薬の分子構造を開発する方法に対し、構造解析創薬はウィルスのタンパク質の分子構造をコンピュータ解析し、ピンポイントで治療薬を設計することである。例えば、インフルエンザウィルスのタンパク質を結晶化してエックス線構造解析し、ウィルスの増殖を抑える薬の分子構造を短期間で設計する。このことで、従来の創薬には臨床実験も含めて15年から20年が必要であり巨額の投資も必要であったが、構造解析創薬手法では10年から15年まで開発期間を短縮し、無駄な作業を排除することで開発費を大幅に削減できる、というものである。

この大型タンパク結晶生成が宇宙ステーション商業利用の目玉でもあった。日本が宇宙ステーション利用で創薬をテーマに挙げている背景である。しかし、エックス線解析技術が進歩し、微細なタンパク結晶でも解析が可能になったため、地上で生成した微細なタンパク結晶でも構造解析が可能となり、宇宙環境利用の意味が無くなってしまった。そのため、バイオクリスト社では、当初予定した高価な宇宙ステーション利用は不必要となり、当時でもすべて地上作業で結晶成長させていた。。

しかし、驚くべき事は、パイオクリスト社が大学発のベンチャー企業と言いながら、10数年以上も研究を続けられる社会環境、及び民間企業、NASA、研究機関等の人的資金的支援環境である。ベンチャー企業が創薬を行うことは世界経済大国第二位と言われた日本では全く不可能である。日本の大学発ベンチャー企業発掘メカニズムであるTLOは3年以内の短期事業化を求めている。そもそも3年で事業化できる研究に大したテーマがあるわけがない。こういった精神文化の背景や投資メカニズムのため、米大学発ベンチャー企業に対して日本の製薬会社ができることと言えば、長期投資と手っ取り早い輸入だけである。塩野義製薬でさえも、当時からこの創薬手法は熟知し、自ら創薬も可能であったにもかかわらず、米国ベンチャー企業への投資と製品開発後の輸入でしか新薬を手にすることが出来なかった。このことは日本の研究開発の基本的な姿勢である、リスクから逃げ挑戦を嫌い開拓者を評価せず潰す、という世相を反映したものである。すべては(良い面も悪い面もあるが)米国の精神文化の一つである「開拓者への尊厳」の精神文化がなせる技であろう。日本の精神文化に完全に欠けている部分である。

日本にとって大きな問題は新しい精神文化をいかにして構築するかである。中国、韓国、ロシア、欧州やインド、中南米、アフリカ等の開発途上国の挑戦に対して立ち向かう精神文化は、江戸時代以来日本人にとって未体験ゾーンである。日本が「華麗なる衰退」に向っている現状から、新たな方向に舵を取れない場合、挑戦に負け日本の崩壊は加速することになる。これを食い止める方法は、開発途上国に奉仕することでぶら下がり、得た利益をシェアするか、開発途上国の前を走り続け、自らのセンサーを信頼して新たな技術、新たな分野となる新雪をかき分けて前進し続けるための体力と精神力を養うか、どちらかである。

日本は「英国病」の病魔に冒されつつある。「英国病」から脱却するために英国が目指した社会民主主義路線である「第三の道」がヨーロッパと同様に日本に定着するかどうか、この日本版「第三の道」はいかなる社会なのか、「第三の道」での研究開発体制がどのように変化するのか? 注視するところである。(村川、スペースレフ)